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ミヤザキホーム物語(旭川近郊の工務店ならミヤザキホーム)

”弊社とお客様をつないでいった“目に見えない想い”

三代目 宮崎 直樹

  弊社は昭和2年に創業した歴史のある木造建築会社です。
これまで数多くのお客様と接し、 またプロとして住宅を建築・提供するにあたり、 いろいろなことを考えさせられました。
ここでは弊社が創業からつないでいる“想い”について語りたいと思います。

 

 

創業者がこだわった土台の大切さ

先代 弊社の創業者は私の父にあたる「宮崎忠一」です。

明治生まれの先先代は、まさにドラマに出てくるような頑固オヤジで、
曲ったことを決して許さない性格でした。  

 

この先代が“生”を受けたのは、明治38年10月。
香川県三豊郡高室村で6人兄弟の5男でした。
高室小学校を卒業後、大工であった兄の厳しい指導のもと、
大工の一技術を少しずつ身に付けていきます。

 

19歳になったとき、叔父を頼って渡道。

  その後、単騎一人で、棚の取付から犬小屋まで何でも引き受けました。

 

「まずは信頼を得ることが先決だ!」

次第に地道な努力が実を結び、
地元農家のお客様から納屋や住宅の請負工事を任されるようなっていったのです。
そして昭和2年、 今の前身である宮崎組として木造住宅工事を中心に本格的に営業を開始しました。

 

建築工事において、先代がとくにこだわったのは、 “基礎と構造”です。  
社長業を引退した後でも、 たびたび現場にやって来ては、こう叱咤激励しました。

「家は足もとになる基礎が一番大事だから、

基礎には手間とお金を惜しむな!もちろん骨組になる柱も、だぞ!」

 

家は出来上がってしまえば、基礎や構造はなかなか見えにくい部分です。
しかし、長きにわたって家を維持するためには、
もっとも大切でもっとも手を抜いてはいけない部分なのです。

 

見えないところにこだわっていく  。

――それは弊社がその後歴史をつないでいく、 まさに「基礎・土台」の考えとなりました。

 

定款1 こうしたこだわりによって受注は増加し、
昭和38年1月には発起人を募り、 「株式会社宮崎組」と組織を変更しました。

これは弊社の宝物でもある当時の定款です。

 

 

 

 

    診療所受注物件も住宅のみならず、 ガソリンスタンド、公民館、老人ホーム、保育所、消防署などフィールドを広げていきました。

この写真は、昭和22年施工の東神楽村立診療所の竣工写真です。

 

 

 


建築作業場の火災、そして不況の時代へ

画像 031 見えないことの一つに、“日々の研究・努力”があげられます。
新しい建築技術にこだわって取り組んだのが、 私の父にあたる二代目の先代社長「宮崎篤」でした。

 

父は旭川工業高等学校を卒業後、
まわりの友人が東京の大手建築会社に就職するなか、
それでも「地元のために働きたい!」と、昭和39年に宮崎組に入社。

 

その後、先代から現場のイロハを厳しく教わり、
経験を積み重ねて、昭和51年に宮崎組の社長に就任しました。

 

社長就任当時、建築技術は日進月歩で、 ハウスメーカーなどでは盛んに新しい工法をPRしていました。
もともと職人肌だった父は、時代にマッチした技術を採り入れよう!
と新しい工法などを積極的に導入していきました。

  ところが・・・・思いも寄らぬ事件が弊社を襲います。

 

それは忘れもしない昭和57年4月29日こと。

弊社の建築作業場で大火災が起こったのです。

ちょうど建築が進行中だった3案件の木材・資材もすべて燃えてしまうほどの全焼。

原因は煙草の後始末でした。

 

三代目の私も子供ながらに、窓の外が真っ赤に燃えて怖かった記憶が今でも鮮明に蘇ります。

 

そうしたトラウマもあって、 今では私は地域の消防団員に入り、地域のために活動しています。  

 

火災では、悪夢かと思うくらい莫大な損害を被りました。
ですが、損害を何とか増資で賄い、全職人が一丸となって頑張り抜いた結果、
進行中だった案件は無事完成までこぎつけることができました。  

 

  この間、大きな慰めとなったのが、
「地元の方々からの励ましの言葉だった」と父は振り返ります。
あらためて地域の人々に助けられ支えられて営業していることを、 身をもって知らされた事件でもありました。

 

 

ようやく立ち直りかけた平成10年頃、 今度は不況の波が襲いかかります。
このときは公共工事受注の激減という影響を受けました。

少ない案件を各社で取り合うという競争が激化するなか、
リフォームでもアスファルト工事でも、お客様からのご依頼があれば何でも引き受けて、

先代からの“信頼”をつないでいったのです。

 

  信頼は大きな財産です。

 

しかし、得るのは大変でも、簡単に失うのも信頼

 

――これを教訓に、 一つひとつの案件に丁寧・誠実に対応し、競争の時代を生き抜きました。  

 


お客様や地域の人々に喜ばれる会社を目指す

さて、景気が悪化し始めた頃、
三代目の私はといえば・・・・大学生活をエンジョイしていました。

 

実をいうと、子供時代、家業が大嫌いでした。

 

  休みの日でも父は働いていて遊んでもらえないし、
何より職人なんてカッコよくない、と思っていたのです。

考えが変わったのは、就職活動を始めたとき。

 

一生の仕事を!と真剣に考えたとき、
家業には先代、父と築いてきたものがあり、
それは“かけがえのないもの”に思えました。

 

 

  不況時こそ家族一丸となって頑張りたい!
という気持ちも芽生えたりして。

 

それで修行のために大手ハウスメーカーへ就職。

 

自分なりに知識と技術を得てから、後を継ごうと考えたのです。  

 

ここで営業を2年経験し、人と人との絆の大切さを学びました。

平成10年に宮崎組に入社してからも、勉強の日々でした。

現場監督として職人さんと対等に話ができるようになるまで10年かかりました。

 

建築って本当に奥の深い世界です。  

 

ある程度自信がついてきた頃、ある新築住宅案件で猛反省した経験があります。

 

そのお客様はデザインにこだわりがあったのですが、

弊社も建築のプロとしてのこだわりがあったことから、 自分たちの考えを押し付けようとしました。

 

  そのとき、お客様にこう言われたのです。

 

「一生に一度のことなので、私たちが住みたい家を建てさせてください」と。

 

 

その時 大ハンマーで頭を殴られた感じでした。

 

  「我々には何軒かの内の仕事でも、 お客様にはそれぞれ一軒一軒が一生に一度の大事業なのだと」  

 

 

自分たちが関わる仕事の責任を改めて痛感しました。

 

お客様の一生の夢をかなえるために、プロとしてどうあるべきかと――。 画像 052

 

それ以来、

自分たちがどういう存在でいれば
「お客様に喜んでもらえるのか」を常に考えるようになりました。

 

健康志向に応えるために自然素材も採り入れました。

また、資金計画や税金対策、光熱費の節約など、
さまざまなライフプランを提案することにも積極的に取り組みました。

 

建築業も“サービス業”という発想です。  

 

そうした努力を積み重ねていった結果、
昔から好意をいただいているお客様にはいっそう支持されるとともに、
新築住宅を求めるお客様も徐々に増えていきました。

  そういえば、先々代が生前に

「お客様の利益を優先して考えることが、最終的には自分に還ってくるんだぞ」

と何度も言っていました。

 

  さらに、「会社の利益の一部を町に寄付していた」という事実を、 亡くなってから祖母に聞きました。

 

  今、自分たちの会社は、お客様や地域の人々に愛されて、 初めて成り立つと実感できるようになりました。  

 

まだまだ尊敬する先代の域には達していませんが、
自分のペースで成長していければと思っています。

 

  弊社にとってお客様と接する毎日がストーリーです。

 

まだまだ小さな工務店ですが、小さいからこそ、

一人ひとりのお客様に細やかなご対応・サービスが可能と思っています。

これからどんなドラマに出会えるのか、楽しみにしています。

 

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